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vendored
2
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vendored
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@ -64,6 +64,7 @@
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"Artículos",
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"astrojs",
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"attributify",
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"Beze",
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"blurhash",
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"bmoji",
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"Disqus",
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@ -93,6 +94,7 @@
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"reimagines",
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"Retypeset",
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"Roundhand",
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"Servetus",
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"Sobre",
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"srcset",
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"STIX",
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84
src/content/posts/Markdown Style Guide-en.mdx
Normal file
84
src/content/posts/Markdown Style Guide-en.mdx
Normal file
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@ -0,0 +1,84 @@
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title: Markdown Style Guide
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published: 2025-03-08
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updated: 2025-03-12
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tags: ["Guide"]
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pin: 1
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lang: en
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FROM https://github.com/saicaca/fuwari
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## GitHub Repository Cards
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You can add dynamic cards that link to GitHub repositories, on page load, the repository information is pulled from the GitHub API.
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::github{repo="Fabrizz/MMM-OnSpotify"}
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Create a GitHub repository card with the code `::github{repo="<owner>/<repo>"}`.
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```markdown
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::github{repo="saicaca/fuwari"}
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```
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## Admonitions
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Following types of admonitions are supported: `note` `tip` `important` `warning` `caution`
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:::note
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Highlights information that users should take into account, even when skimming.
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:::
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:::tip
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||||
Optional information to help a user be more successful.
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:::
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:::important
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||||
Crucial information necessary for users to succeed.
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||||
:::
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:::warning
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||||
Critical content demanding immediate user attention due to potential risks.
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:::
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:::caution
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Negative potential consequences of an action.
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:::
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### Basic Syntax
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```markdown
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:::note
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Highlights information that users should take into account, even when skimming.
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:::
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:::tip
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||||
Optional information to help a user be more successful.
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:::
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```
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### Custom Titles
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The title of the admonition can be customized.
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:::note[MY CUSTOM TITLE]
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This is a note with a custom title.
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:::
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```markdown
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:::note[MY CUSTOM TITLE]
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||||
This is a note with a custom title.
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:::
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```
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### GitHub Syntax
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> [!TIP]
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> [The GitHub syntax](https://github.com/orgs/community/discussions/16925) is also supported.
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```
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> [!NOTE]
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||||
> The GitHub syntax is also supported.
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> [!TIP]
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||||
> The GitHub syntax is also supported.
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```
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@ -1,8 +1,10 @@
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title: Markdown 样式指南
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published: 2025-03-08
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updated: 2025-03-12
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tags: ["指南"]
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pin: 1
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lang: zh
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FROM https://github.com/saicaca/fuwari
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@ -1,8 +1,8 @@
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title: Theme Guide
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published: 2025-01-26
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updated: 2025-03-09
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tags: ["Astro Blog Theme","Theme Guide"]
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||||
updated: 2025-03-12
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||||
tags: ["Blog Theme","Guide"]
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pin: 99
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lang: en
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@ -1,7 +1,7 @@
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||||
title: 主题上手指南
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published: 2025-01-26
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||||
updated: 2025-03-09
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||||
updated: 2025-03-12
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||||
tags: ["博客主题","指南"]
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pin: 99
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lang: zh
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15
src/content/posts/Universal Post.md
Normal file
15
src/content/posts/Universal Post.md
Normal file
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@ -0,0 +1,15 @@
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title: Universal Post
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published: 2025-03-12
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这是一篇通用文章,会在所有语言版本的首页中显示。
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這是一篇通用文章,會在所有語言版本的首頁中顯示。
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これは汎用的な記事で、すべての言語バージョンのホームページに表示されます。
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This is a universal article that will be displayed on the homepage of all language versions.
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Este es un artículo universal que se mostrará en la página principal de todas las versiones de idioma.
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Это универсальная статья, которая будет отображаться на главной странице всех языковых версий.
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68
src/content/posts/example/容忍与自由-ja.mdx
Normal file
68
src/content/posts/example/容忍与自由-ja.mdx
Normal file
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@ -0,0 +1,68 @@
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title: 寛容と自由
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published: 1959-03-16
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tags: ["胡適","きんだいぶんがく"]
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lang: ja
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abbrlink: tolerance-freedom
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import { Image } from 'astro:assets';
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<Image src="https://image.radishzz.cc/picsmaller/02.webp" inferSize alt="这是图片的说明文字" />
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今から17、18年前、私は母校コニヤース大学の歴史学修士ジョージ・リンカーン・バー氏と最後に会った。 私たちは、生前に執筆を準備していた『自由の歴史』を書かずに亡くなった英国の歴史家アクトン卿について話していた。 その日、バー氏は多くの会話を交わしたが、その中で私が今でも忘れられない一文があった。 年を取れば取るほど、自由よりも寛容の方が大切だと感じるようになる」と。
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ブリュワー氏が亡くなって10年以上が経つが、彼のこの言葉は考えれば考えるほど、忘れられない格言だと感じる。 私自身、「年を取れば取るほど、自由よりも寛容さの方が大切だと感じるようになる」という思いもある。 寛容さこそがすべての自由の本質であり、それなくして自由はないとさえ思うことがある。
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私が17歳のとき(1908年)、私は『競争倫敦新聞』にいくつかの記事を掲載した。その中には、小説『西遊記』や『風神榜』をこき下ろしたものもあり、私はこう言った:
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「幽霊や神々の捏造、時日占いで群衆を疑い、殺す"。 私はただ権力の数千年の行支配を責めて、世界と人民の自己期待への道を助けるために、無知で注意を払わないで、世界と虚偽の人民の教義を混同して実践することができて、そして私の神の状態を闇の世界に引き上げた!
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これは「道の守護」に対する子供の非常に不寛容な態度だった。 当時、私はすでに無霊・無神論者であったので、迷信を滅ぼすというあのような荒唐無稽な主張をし、『王制』の古典の一つ(『礼記』の一篇)である「幽霊や神を根拠に占いで民衆を疑えば、殺される」という言葉を実行に移したかったのである!
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このように言った小さな子供が、15年後(1923年)、西遊記について2万字に及ぶ考察をするほどの熱意を持つようになるとは、その時は夢にも思わなかった! その小さな子供が、20年後、30年後も『神々のタブレット』の作者であることを証明できる資料を探し続けているとは、その時は夢にも思わなかった! また、『王制』の一節が歴史的に重要であるなどとは、当時はまったく考えてもいなかった。 その『王制』の一節の全文はこうだ:
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言葉を解析して法を破り、人の名を変え、左の道をたどって政を乱す者は殺せ。 わいせつな音を立てたり、奇妙な衣装を着たりして、人々に不審を抱かせる者は殺せ。 線は偽りで堅く、言葉は偽りで弁証法的であり、学問は広くはないが、滑らかな非ゼファーは群衆を疑うことであり、殺すことである。 幽霊、神、時、日、占いのふりをして民衆を疑い、殺すことである。 この4人の殺し屋の言うことは聞いてはいけない。
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50年前、私はこの一節の「罰」が、中国の権威主義体制下で新しい思想、新しい学問、新しい信仰、新しい芸術を禁止する古典的な根拠であることをまったく理解していなかった。 当時、私は「迷信を打破する」という熱意を抱いていたので、「四刑」の4番目の 「幽霊や神、時日占いを偽って大衆を疑う者は殺せ 」を支持した。 当時は、四罪の「幽霊や神......大衆を疑う」と一罪の「政府を混乱させる左翼」が、信教の自由を破壊するために使われるとは思っていなかった。 その時、私はまた、鄭玄のメモが「奇妙な技法と外国の武器」として、公図蛮の例を用いていることに気づかなかった。さらに言えば、孔英大の『正義』が「孔子は7日間魯の参謀だったが、邵正茂を処刑した」という例を挙げて、「......」と説明していることにも気づかなかった。 第二の刑罰は、その人の行動を禁止するために用いることができるが、その人の言論を禁止するために用いることはできない。 したがって、第二の罰は芸術創作の自由を禁止するために使用することができ、また「奇妙な技術や奇妙な武器」を発明した多くの科学者を「殺す」ために使用することができる。 したがって、第三の刑罰は、思想の自由、言論の自由、出版の自由を破壊するために使われる可能性がある。
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50年前、私は『西遊記』と『神々の創世』の著者を「殺す」ために、王制の第4の罰を発動した。 その時はもちろん、10年後、私が北京大学で教鞭をとっていた時、同じ「道の擁護者」でありながら、私と私の友人を「殺す」ために「王制」の第三の刑罰を発動しようとする正義の人々が現れるとは夢にも思わなかった。 当時、私は人を「殺したい」と思い、後に人は私を「殺したい」と思ったが、動機は同じで、ちょっとした正義の怒りのために寛容さを失ったのである。
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私が50年前、幽霊や神や時間や日に頼って占いをする人々を殺すことを提唱した話をしたのは、年を取れば取るほど、「自由」よりも「寛容」の方が大切だと感じるようになることを説明するためである。 私は今日も無神論者である。
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私は現在も無神論者であり、意志を持った神を信じていないし、魂の不滅を信じているわけでもない。 しかし、私の無神論と共産党の無神論には根本的な違いがある。 私は神を信じるすべての宗教を容認することができるし、宗教を心から信じるすべての人々を容認することができる。 無神論を標榜する共産党自身が、神への信仰をすべて破壊し、神のいる宗教への信仰をすべて禁止しようとしている--50年前の私の幼稚で傲慢な不寛容は、そのようなものだった。
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私自身は、国民の大多数が神を信じているこの国、この社会、この世界には、私の無神論を容認し、神も魂の不滅も信じていない私を容認し、私が国内外で無神論的な考えを自由に表現することを容認する優しさがあり、そのために私を石で投げつけたり、牢獄に閉じ込めたり、薪の上に束ねて火で焼いたりする人はいないと、いつも感じていた。 実際、私はこの世界で40年以上も寛容と自由を享受してきた。 この国、この社会、この世界が私に示してくれた寛容の尺度は素敵なものであり、感謝に値するものだと感じている。
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だから私自身は、社会の私に対する寛容さに寛容さで報いるべきだと常に思っている。 したがって、私は神を信じていないが、神を信じるすべての人々を心から理解することができるし、神を信じるすべての宗教を心から許容し、尊重することができる。
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私は社会の寛容さに寛容さで報いたい。年を重ねるごとに、寛容さの大切さを感じるようになったからだ。 もし社会が寛容でなかったら、私は40年以上にわたって大胆な懐疑の自由を享受することも、無神論を公に主張する自由を得ることもできなかっただろう。
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宗教の自由の歴史を見ても、知的自由の歴史を見ても、政治的自由の歴史を見ても、寛容という態度が最も稀有なものであることがわかる。 人間は常に、異なるものよりも同じものを好み、自分とは異なる信念、思考、行動を嫌う習性がある。 これが不寛容の根源である。 不寛容とは単に、自分とは異なる新しい考えや新しい信念に対する不寛容である。 宗教団体は常に、自分たちの宗教的信念が正しく、間違っているはずがないと信じているので、自分たちと異なる宗教的信念は間違っているに違いない、異端であるに違いない、カルトであるに違いないと常に信じている。 政治団体は常に、自分たちの政治的意見は正しく、間違ってはならないと信じている。だから、自分たちと異なる政治的意見は間違っているに違いなく、敵に違いないと常に信じている。
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異端者に対する迫害も、「異論者」に対する破壊も、信教の自由の禁止も、思想や言論の弾圧も、すべて「人は間違ってはならない」という信念によるものだ。 自分が間違っているはずがないという信念があるからこそ、人は自分と異なる思想や信念を容認することができない。
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ヨーロッパにおける宗教刷新運動の歴史を見てみよう。 マルティン・ルターとジョン・カルヴァンが宗教に革命を起こそうと立ち上がったのは、もともと古いローマ宗教の不寛容さと自由のなさに不満を持っていたからだ。 しかし、中欧と北欧でプロテスタンティズムが勝利した後、プロテスタンティズムの指導者たちは次第に不寛容に戻り、自分たちの新しい教義を他人が批判することを許さなくなった。 ジュネーブで宗教的権力を握っていたガルヴァンは、ガルヴァンの教義を批判し、独自の思想を持つことを敢えてした学者セルヴェトゥスを、実際に「異端」として有罪にし、杭に鎖でつないで薪を積み上げ、ゆっくりと生きたまま焼き殺した。 1553年10月23日の出来事である。
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この殉教者セビトゥスの悲劇的な歴史は、想起と考察に最も値するものである。 宗教刷新運動の本来の目的は、「キリスト教的人間の自由」と「良心の自由」のために戦うことだった。 なぜガルヴァンとその信奉者たちは、独立心の強いプロテスタントを徐火で焼き殺したのか? ガルヴァンの弟子の一人であるド・ベーズ(後にガルヴァンの後継者としてジュネーブの宗教独裁者となる)が、「良心の自由は悪魔の教義である」と宣言したのはなぜか。
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その基本的な理由は、自分自身は「悪いことはできない」という小さな確信にある。 もしガルヴァンのような敬虔な改革者が、自分の良心が本当に神の命令を表しており、自分の口とペンが本当に神の意志を表していると確信していたとしたら、彼の意見が間違っている可能性はあるのだろうか? 彼が間違っている可能性はあるのだろうか? セルベトゥスの火刑の後、ガルヴァンは多くの人々から批判を受けたが、1554年、彼は自分自身を弁護する文章を発表し、その中で、「悪を語る者を厳しく罰する権威は疑う余地がない。 ......この仕事は神の栄光のために戦っている」
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神ご自身が語ることが悪いことだろうか? 神の栄光のために戦うことが悪いことだろうか? この 「私は間違っていない 」という小さな考え方が、あらゆる不寛容の根源なのだ。 自分の信念は絶対であり、自分の意見は 「正義 」であり、反対する者はもちろん 「異端者 」である。 私の意見は神の意志を代弁するものであり、私に反対する者の意見はもちろん「悪魔の教義」である。
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これは信教の自由の歴史が教えてくれる教訓である。寛容はすべての自由の基礎であり、「異端者」を寛容する恵みがなければ、「異端」の宗教的信念が自由を享受することは認められない。 しかし、不寛容は「私の信念は間違っていない」という精神的習慣に基づくものであるため、「異論」に対する寛容は、寛容の中でも最も希少で、最も培われていないものである。
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政治的思考や社会問題の議論においても、不寛容は一般的であり、寛容は常に稀であると感じる。 例として、亡くなった旧友の話を挙げよう。 40年以上前、雑誌『新青年』で方言文学を提唱する運動を始めたとき、私はアメリカから全斗秀に手紙を送り、こう言った:
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この問題の善悪は一朝一夕に決められるものではないし、一人や二人で決められるものでもない。 私は、国内の人々が冷静かつ平和的な方法で、私たちとともにこの問題を研究してくれることを強く望んでいる。 議論が成熟すれば、善悪は明らかになるだろう。 私たちは革命の旗を掲げたが、後退することはできないが、私たちが主張することを必ずそうでなければならないとし、他者にそれを修正させない勇気はない。
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杜秀は『新青年』で私にこう答えた:
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私は、異論を受け入れることを意味し、自由な議論は、学術発展の原則であり、唯一の本格的な格言として、中国語の文学の改善で、その正誤は非常に明確であり、反対派が部屋の議論を持って許可されません。
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当時、私はこれは非常に独断的な態度だと思った。 それから40年以上たった今でも、私は杜秀のこの言葉を忘れることができない。そして、この「自分たちの主張することを絶対的な権利とする」という態度は、非常に不寛容な態度であり、他人の悪感情を最も呼び起こしやすく、最も反発を招きやすい態度だと今でも思っている。
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私はかつて、社会が私に対して寛容であることに寛容な態度で報いるべきだと言ったことがある。 もし他人に自分の意見を許容し、理解してもらいたいのであれば、まず自分が他人の意見を許容し、理解する尺度を身につけなければならない。 少なくとも、「自分の主張が絶対的に正しいと思い込む」ようなことは決してしてはならない。 実験主義の訓練を受けてきた私たちは、「絶対的なイエス」を認めないし、ましてや私たちが主張することを「絶対的なイエスとする」ことなどできない。
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4-8, 3-12 朝
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(原文:『自由中国』台北、1959年3月16日、第20巻、第6号)
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src/content/posts/example/容忍与自由-zh-tw.mdx
Normal file
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src/content/posts/example/容忍与自由-zh-tw.mdx
Normal file
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@ -0,0 +1,68 @@
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title: 容忍與自由
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published: 1959-03-16
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tags: ["胡適","近代文學"]
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lang: zh-tw
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abbrlink: tolerance-freedom
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import { Image } from 'astro:assets';
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<Image src="https://image.radishzz.cc/picsmaller/02.webp" inferSize alt="这是图片的说明文字" />
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十七八年前,我最後一次會見我的母校康耐兒大學的史學大師布爾先生(George Lincoln Burr)。我們談到英國史學大師阿克頓(Lord Acton)一生準備要著作一部《自由之史》,沒有寫成他就死了。布爾先生那天談話很多,有一句話我至今沒有忘記。他說,「我年紀越大,越感覺到容忍(tolerance)比自由更重要」。
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布爾先生死了十多年了,他這句話我越想越覺得是一句不可磨滅的格言。我自己也有「年紀越大,越覺得容忍比自由還更重要」的感想。有時我竟覺得容忍是一切自由的根本:沒有容忍,就沒有自由。
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我十七歲的時候(1908)曾在《競業旬報》上發表幾條《無鬼叢話》,其中有一條是痛罵小說《西遊記》和《封神榜》的,我說:
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《王制》有之:「假於鬼神時日卜筮以疑眾,殺。」吾獨怪夫數千年來之排治權者,之以濟世明道自期者,乃懵然不之注意,惑世誣民之學說得以大行,遂舉我神州民族投諸極黑暗之世界!
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這是一個小孩子很不容忍的「衛道」態度。我在那時候已是一個無鬼論者、無神論者,所以發出那種摧除迷信的狂論,要實行《王制》(《禮記》的一篇)的「假於鬼神時日卜筮以疑眾,殺」的一條經典!
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我在那時候當然沒有夢想到說這話的小孩子在十五年後(1923)會很熱心的給《西遊記》作兩萬字的考證!我在那時候當然更沒有想到那個小孩子在二、三十年後還時時留心搜求可以考證《封神榜》的作者的材料!我在那時候也完全沒有想想《王制》那句話的歷史意義。那一段《王制》的全文是這樣的:
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析言破律,亂名改作,執左道以亂政,殺。作淫聲異服奇技奇器以疑眾,殺。行偽而堅,言偽而辯,學非而博,順非而澤以疑眾,殺。假於鬼神時日卜筮以疑眾,殺。此四誅者,不以聽。
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我在五十年前,完全沒有懂得這一段話的「誅」正是中國專制政體之下禁止新思想、新學術、新信仰、新藝術的經典的根據。我在那時候抱着「破除迷信」的熱心,所以擁護那「四誅」之中的第四誅:「假於鬼神時日卜筮以疑眾,殺。」我當時完全沒有想到第四誅的「假於鬼神……以疑眾」和第一誅的「執左道以亂政」的兩條罪名都可以用來摧殘宗教信仰的自由。我當時也完全沒有注意到鄭玄註裡用了公輸般作「奇技異器」的例子;更沒有注意到孔穎達《正義》裡舉了「孔子為魯司寇七日而誅少正卯」的例子來解釋「行偽而堅,言偽而辯,學非而博,順非而澤以疑眾,殺」。故第二誅可以用來禁絕藝術創作的自由,也可以用來「殺」許多發明「奇技異器」的科學家。故第三誅可以用來摧殘思想的自由,言論的自由,著作出版的自由。
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我在五十年前引用《王制》第四誅,要「殺」《西遊記》《封神榜》的作者。那時候我當然沒有夢想到十年之後我在北京大學教書時就有一些同樣「衛道」的正人君子也想引用《王制》的第三誅,要「殺」我和我的朋友們。當年我要「殺」人,後來人要「殺」我,動機是一樣的:都只因為動了一點正義的火氣,就都失掉容忍的度量了。
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我自己敘述五十年前主張「假於鬼神時日卜筮以疑眾,殺」的故事,為的是要說明我年紀越大,越覺得「容忍」比「自由」還更重要。
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我到今天還是一個無神論者,我不信有一個有意志的神,我也不信靈魂不朽的說法。但我的無神論和共產黨的無神論有一點最根本的不同。我能夠容忍一切信仰有神的宗教,也能夠容忍一切誠心信仰宗教的人。共產黨自己主張無神論,就要消滅一切有神的信仰,要禁絕一切信仰有神的宗教,——這就是我五十年前幼稚而又狂妄的不容忍的態度了。
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我自己總覺得,這個國家、這個社會、這個世界,絕大多數人是信神的,居然能有這雅量,能容忍我的無神論,能容忍我這個不信神也不信靈魂不滅的人,能容忍我在國內和國外自由發表我的無神論的思想,從沒有人因此用石頭擲我,把我關在監獄裡,或把我捆在柴堆上用火燒死。我在這個世界裡居然享受了四十多年的容忍與自由。我覺得這個國家、這個社會、這個世界對我的容忍度量是可愛的,是可以感激的。
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所以我自己總覺得我應該用容忍的態度來報答社會對我的容忍。所以我自己不信神,但我能誠心的諒解一切信神的人,也能誠心的容忍並且敬重一切信仰有神的宗教。
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我要用容忍的態度來報答社會對我的容忍,因為我年紀越大,我越覺得容忍的重要意義。若社會沒有這點容忍的氣度,我決不能享受四十多年大膽懷疑的自由,公開主張無神論的自由了。
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在宗教自由史上,在思想自由史上,在政治自由史上,我們都可以看見容忍的態度是最難得,最稀有的態度。人類的習慣總是喜同而惡異的,總不喜歡和自己不同的信仰、思想、行為。這就是不容忍的根源。不容忍只是不能容忍和我自己不同的新思想和新信仰。一個宗教團體總相信自己的宗教信仰是對的,是不會錯的,所以它總相信那些和自己不同的宗教信仰必定是錯的,必定是異端,邪教。一個政治團體總相信自己的政治主張是對的,是不會錯的,所以它總相信那些和自己不同的政治見解必定是錯的,必定是敵人。
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一切對異端的迫害,一切對「異已」的摧殘,一切宗教自由的禁止,一切思想言論的被壓迫,都由於這一點深信自己是不會錯的心理。因為深信自己是不會錯的,所以不能容忍任何和自己不同的思想信仰了。
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試看歐洲的宗教革新運動的歷史。馬丁路德(Martin Luther)和約翰高爾文(John Calvin)等人起來革新宗教,本來是因為他們不滿意於羅馬舊教的種種不容忍,種種不自由。但是新教在中歐北歐勝利之後,新教的領袖們又都漸漸走上了不容忍的路上去,也不容許別人起來批評他們的新教條了。高爾文在日內瓦掌握了宗教大權,居然會把一個敢獨立思想,敢批評高爾文的教條的學者塞維圖斯(Servetus)定了「異端邪說」的罪名,把他用鐵鏈鎖在木樁上,堆起柴來,慢慢的活燒死。這是1553年10月23日的事。
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這個殉道者塞維圖斯的慘史,最值得人們的追念和反省。宗教革新運動原來的目標是要爭取「基督教的人的自由」和「良心的自由」。何以高爾文和他的信徒們居然會把一位獨立思想的新教徒用慢慢的火燒死呢?何以高爾文的門徒(後來繼任高爾文為日內瓦的宗教獨裁者)柏時(de Beze)竟會宣言「良心的自由是魔鬼的教條」呢?
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基本的原因還是那一點深信我自己是「不會錯的」的心理。像高爾文那樣虔誠的宗教改革家,他自己深信他的良心確是代表上帝的命令,他的口和他的筆確是代表上帝的意志,那末他的意見還會錯嗎?他還有錯誤的可能嗎?在塞維圖斯被燒死之後,高爾文曾受到不少人的批評。1554年,高爾文發表一篇文字為他自己辯護,他毫不遲疑的說,「嚴厲懲治邪說者的權威是無可疑的,因為這就是上帝自己說話。……這工作是為上帝的光榮戰鬥」。
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上帝自己說話,還會錯嗎?為上帝的光榮作戰,還會錯嗎?這一點「我不會錯」的心理,就是一切不容忍的根苗。深信我自己的信念沒有錯誤的可能(infallible),我的意見就是「正義」,反對我的人當然都是「邪說」了。我的意見代表上帝的意旨,反對我的人的意見當然都是「魔鬼的教條」了。
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這是宗教自由史給我們的教訓:容忍是一切自由的根本;沒有容忍「異己」的雅量,就不會承認「異己」的宗教信仰可以享自由。但因為不容忍的態度是基於「我的信念不會錯」的心理習慣,所以容忍「異己」是最難得,最不容易養成的雅量。
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在政治思想上,在社會問題的討論上,我們同樣的感覺到不容忍是常見的,而容忍總是很稀有的,我試舉一個死了的老朋友的故事作例子。四十多年前,我們在《新青年》雜誌上開始提倡白話文學的運動,我曾從美國寄信給陳獨秀,我說:
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此事之是非,非一朝一夕所能定,亦非一二人所能定。甚願國中人士能平心靜氣與吾輩同力研究此問題。討論既熟,是非自明。吾輩已張革命之旗,雖不容退縮,然亦決不敢以吾輩所主張為必是而不容他人之匡正也。
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獨秀在《新青年》上答我道:
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鄙意容納異議,自由討論,固為學術發達之原則,獨於改良中國文學當以白話為正宗之說,其是非甚明,必不容反對者有討論之餘地;必以吾輩所主張者為絕對之是,而不容他人之匡正也。
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我當時看了就覺得這是很武斷的態度。現在在四十多年之後,我還忘不了獨秀這一句話,我還覺得這種「必以吾輩所主張者為絕對之是」的態度是很不容忍的態度,是最容易引起別人的惡感,是最容易引起反對的。
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我曾說過,我應該用容忍的態度來報答社會對我的容忍。我現在常常想我們還得戒律自己:我們若想別人容忍諒解我們的見解,我們必須先養成能夠容忍諒解別人的見解的度量。至少至少我們應該戒約自己決不可「以吾輩所主張者為絕對之是」。我們受過實驗主義的訓練的人,本來就不承認有「絕對之是」,更不可以「以吾輩所主張者為絕對之是」。
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四八、三、十二晨
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(原載1959年3月16日台北《自由中國》第20卷第6期)
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title: 容忍与自由
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published: 1959-03-16
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我曾说过,我应该用容忍的态度来报答社会对我的容忍。我现在常常想我们还得戒律自己:我们若想别人容忍谅解我们的见解,我们必须先养成能够容忍谅解别人的见解的度量。至少至少我们应该戒约自己决不可“以吾辈所主张者为绝对之是”。我们受过实验主义的训练的人,本来就不承认有“绝对之是”,更不可以“以吾辈所主张者为绝对之是”。
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四八、三、十二晨
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(原载1959年3月16日台北《自由中国》第20卷第6期)
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title: 故鄉
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published: 1921-01-10
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ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
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広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
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何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりが棲すむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
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その代りまた鴉からすがどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾しびのまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻ごまをまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄ついばみに来るのである。――もっとも今日は、刻限こくげんが遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞ふんが、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
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作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申さるの刻こく下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
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雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍いらかの先に、重たくうす暗い雲を支えている。
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どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑いとまはない。選んでいれば、築土ついじの下か、道ばたの土の上で、饑死うえじにをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着ほうちゃくした。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人ぬすびとになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
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下人は、大きな嚔くさめをして、それから、大儀たいぎそうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶ひおけが欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗にぬりの柱にとまっていた蟋蟀きりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。
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下人は、頸くびをちぢめながら、山吹やまぶきの汗袗かざみに重ねた、紺の襖あおの肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子はしごが眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄ひじりづかの太刀たちが鞘走さやばしらないように気をつけながら、藁草履わらぞうりをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
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それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿うみを持った面皰にきびのある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛くもの巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
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下人は、守宮やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平たいらにしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。
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見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸しがいが、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏こねて造った人形のように、口を開あいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖おしの如く黙っていた。
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下人げにんは、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻を掩おおった。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
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下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲うずくまっている人間を見た。檜皮色ひわだいろの着物を着た、背の低い、痩やせた、白髪頭しらがあたまの、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片きぎれを持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
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下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時ざんじは呼吸いきをするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身とうしんの毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱しらみをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
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その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊ごへいがあるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死うえじにをするか盗人ぬすびとになるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。
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下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
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そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄ひじりづかの太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
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老婆は、一目下人を見ると、まるで弩いしゆみにでも弾はじかれたように、飛び上った。
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「おのれ、どこへ行く。」
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下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、こう罵ののしった。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)ねじ倒した。丁度、鶏にわとりの脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
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「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
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下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘さやを払って、白い鋼はがねの色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球めだまが※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗しゅうねく黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
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「己おれは検非違使けびいしの庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄なわをかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
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すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏のどぼとけの動いているのが見える。その時、その喉から、鴉からすの啼くような声が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
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「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」
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下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑ぶべつと一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色けしきが、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
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「成程な、死人しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸しすんばかりずつに切って干したのを、干魚ほしうおだと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病えやみにかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料さいりように買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
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老婆は、大体こんな意味の事を云った。
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下人は、太刀を鞘さやにおさめて、その太刀の柄つかを左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰にきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
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「きっと、そうか。」
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老婆の話が完おわると、下人は嘲あざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰にきびから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。
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「では、己おれが引剥ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
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下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色ひわだいろの着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
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しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪しらがを倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。
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下人の行方ゆくえは、誰も知らない。
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title: 羅生門
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published: 1915-11-05
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ある日の暮方の事である。一人の下人げにんが、羅生門らしょうもんの下で雨やみを待っていた。
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広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗にぬりの剥はげた、大きな円柱まるばしらに、蟋蟀きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路すざくおおじにある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠いちめがさや揉烏帽子もみえぼしが、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
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何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸こりが棲すむ。盗人ぬすびとが棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
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その代りまた鴉からすがどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾しびのまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻ごまをまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄ついばみに来るのである。――もっとも今日は、刻限こくげんが遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞ふんが、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰にきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
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作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申さるの刻こく下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
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雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍いらかの先に、重たくうす暗い雲を支えている。
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どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑いとまはない。選んでいれば、築土ついじの下か、道ばたの土の上で、饑死うえじにをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着ほうちゃくした。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人ぬすびとになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
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下人は、大きな嚔くさめをして、それから、大儀たいぎそうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶ひおけが欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗にぬりの柱にとまっていた蟋蟀きりぎりすも、もうどこかへ行ってしまった。
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下人は、頸くびをちぢめながら、山吹やまぶきの汗袗かざみに重ねた、紺の襖あおの肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子はしごが眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄ひじりづかの太刀たちが鞘走さやばしらないように気をつけながら、藁草履わらぞうりをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
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それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子ようすを窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿うみを持った面皰にきびのある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括くくっていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛くもの巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
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下人は、守宮やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平たいらにしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。
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見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸しがいが、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏こねて造った人形のように、口を開あいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖おしの如く黙っていた。
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下人げにんは、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻を掩おおった。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
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下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲うずくまっている人間を見た。檜皮色ひわだいろの着物を着た、背の低い、痩やせた、白髪頭しらがあたまの、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片きぎれを持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
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下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時ざんじは呼吸いきをするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身とうしんの毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱しらみをとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
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その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊ごへいがあるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死うえじにをするか盗人ぬすびとになるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。
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下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
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そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄ひじりづかの太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
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老婆は、一目下人を見ると、まるで弩いしゆみにでも弾はじかれたように、飛び上った。
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「おのれ、どこへ行く。」
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下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、こう罵ののしった。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)ねじ倒した。丁度、鶏にわとりの脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
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「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
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下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘さやを払って、白い鋼はがねの色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球めだまが※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗しゅうねく黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
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「己おれは検非違使けびいしの庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄なわをかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
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すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏のどぼとけの動いているのが見える。その時、その喉から、鴉からすの啼くような声が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
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「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘かずらにしようと思うたのじゃ。」
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下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑ぶべつと一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色けしきが、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
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「成程な、死人しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸しすんばかりずつに切って干したのを、干魚ほしうおだと云うて、太刀帯たてわきの陣へ売りに往いんだわ。疫病えやみにかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料さいりように買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
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老婆は、大体こんな意味の事を云った。
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下人は、太刀を鞘さやにおさめて、その太刀の柄つかを左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰にきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
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「きっと、そうか。」
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老婆の話が完おわると、下人は嘲あざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰にきびから離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、噛みつくようにこう云った。
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「では、己おれが引剥ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
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下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色ひわだいろの着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
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しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪しらがを倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。
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下人の行方ゆくえは、誰も知らない。
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@ -1,7 +1,9 @@
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title: 羅生門
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title: 罗生门
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published: 1971-03-05
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tags: ["芥川龙之介","经典读本"]
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tags: ["芥川龙之介","近代文学"]
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lang: zh
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